北パブコラム(第25回):少年事件と「可塑性」(弁護士 岡田常志)

1 最近(といってももう大分長い間ですが)少年法の適用年齢引き下げが議論になっています。少年法が適用される上限を20歳未満から18歳未満に下げよう、という動きです。つまり、少年法が適用される子どもたちの対象を狭くしよう、という動きです。

 これに対して、日弁連は反対の立場をとっています。既に関心のある方は、一度は見たことがあると思いますが、このリンクにあるようなリーフレットも日弁連で作成されています。

 

 少年事件の手続は、成人の刑事事件の手続とは多くの点で違いがありますが、その理由の1つに、『少年には「可塑性(かそせい)」がある』という根本的な考えがあります。私自身、「(少なくとも)20歳まで人には可塑性がある」という立場なのですが、リーフレットに載っている内容はさておき、今回は、この「可塑性」について少しお話ししようと思います。

 

2 「可塑性」という言葉はあまり聞きなれない言葉だと思います。これで「かそせい」と読みます。辞典で引くと以下のような説明が出ます。

 

「変形しやすい性質。外力を取り去っても歪みが残り、変形する性質」

(広辞苑 第5版)

 

可塑性のある物の例として、粘土が挙げられます。粘土は、こねたらこねた形の通りにそのまま残ります。こねる前の形がどうだったかは関係ありません。こねた手を離しても、元に戻ったりせず、そのままの形が保たれます。

 粘土と同じで、今の少年の心や考え方がどういう形でも、これから幾らでも変えられるし、変えた後の形を保つこともできる。それが、少年審判の中で語られる「可塑性」です。つまり、少年審判は、「今がどういう状況でも、少年はこれからいくらでも今後の人生を変えることができる」ということが前提になっています。そして、少年法は、「少年がどうすればこれからの人生をよりよく過ごせるか」ということを第一に考え、そのためにどうすればいいかを模索するために、成人の刑事事件とは全く別の手続となっているのです。

 

 少年審判は、少年の過去に対する罰を決めることが目的ではありません。少年審判は、少年に「反省しています」と言わせることがゴールではありません。

 

3 このような話をすると、「犯罪をした少年に本当に可塑性があるのか」という議論がたびたび起こります。

 私自身は経験的にも「どの子にも可塑性はある」と思っています。ただ、それには「周りの大人たちが、けしてあきらめない」という非常に厳しい条件がつきます。

 私は、少年事件以外にも、NPOの活動や、その他色々な場で、色々な状況にある子ども達と関わるようにしています。私が子ども達と遊んでいると、中には周りと上手くコミュニケーションが取れず、友達と喧嘩してしまったり、その場を飛び出してしまう子がいます。子ども達と遊ぶ時間が終わり、一緒にいた大人達に気になった子の様子を伝えると、「実は・・・」とその子が、家族や学校の関係などでいろいろなトラブルやトラウマを抱えている、という話が出ることがあります。

 私は、仕事の合間を縫って遊びに行っているので、子ども達とは一緒にふざけて遊ぶだけなのですが、通っていくうちに、その子の小さな変化に気付くことがあります。それは、あいさつを返してくれたり、ふとした瞬間に目を見て話してくれたり、笑顔で言葉を返してくれたり、言葉遣いにトゲトゲしさがなくなる、といった些細な変化です。そういった変化に気付いたときに、「この子変わりましたね」と周りの大人達に話しかけると、大概、「あのころは本当に大変だったんですが~」と嬉しそうに苦労話が始まります。

 その子の背景にある問題が根深いほど、「あいさつを返す」「目を見て話す」「すぐに怒らなくなる」「周りに優しい言葉をかける」といった、一見些細な変化にも時間がかかります。長い時にはこれだけに数年かかることもあります。冷えて固まった粘土ほど、まずはたくさんこねて柔らかくしないと好きな形にすることができません。まずはたくさんの手で、温めて、力いっぱい時間をかけてこねる必要があります。トラブルを抱える子どもが可塑性を発揮するには、「信頼される大人(達)が、ずっと寄り添う」ことが必要です。

 まずは、周りの大人達が、背景にある問題を解決したり、信頼関係を築くなどして、ガチガチに固まったその子の心をほぐすところから始まります。固まっていた心をほぐしていくと、「胸に溜まっていたもの」がどんどん吐き出されていきます。吐きだし方は人それぞれで、色々な形があります。愚痴や相談だけでなく、誰かへの暴言だったり、わがままだったり、暴力だったりするときもあります。そういった子どもたちから吐き出されてくるものを周りの大人が一生懸命受け止めていきます。そして、落ち着いたと思ったらまた何かの拍子に不安定になったり、何度も失敗と成功を繰り返しながら寄り添い続けて、やっと少しずつ子ども達は変わっていくのです。

 変化に数年かかる、というと「そんなに手間はかけていられないから、成人と同じように扱っていいのではないか」という意見も出て来くるかもしれません。しかし、私としては、その少年のその後の数十年に及ぶ長い人生を考えれば、十分見返りの大きいものではないかと思います。何より、目の前の子が笑顔になったり、立派になってくれるのを間近で見られるのはとてもうれしいものです。私は子どもたちの笑顔に会えるたびに、信じて良かったと思うと同時に、もし可塑性を信じてくれない大人たちにしか会えなかったら、この子は今笑顔でいられるのだろうかと、とても怖くなります。

 

4 私の個人的な意見はさておいても、現行の少年審判の手続は、少年には可塑性がある、少年の未来はこれから変えられる、という前提で制度が作られています。そうである以上、弁護士には、その制度の目的にそった活動をすることが期待されます。

 「少年の可塑性を信じて最後まで付き添う」というのは、誰もができることではありありません。そして、大人がその少年の可塑性を信じなければ、その少年の可塑性は結果的に失われてしまいます。

 もし、これを読んでくれた少年がいてくれるのなら、気軽にまずは相談してほしいですし、また大人の方々も、ご自身のお子様や、身近な子どもたちが事件を起こしてしまったり、巻き込まれてしまった際には、ぜひ当所までご相談してくださればと思います。

 

少年の未来のために、精一杯付添人として活動させていただきます。

弁護士 岡田常志

2017年4月20日 12:00 AM  カテゴリー: コラム

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