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【4/17受付開始】4/29(土・祝)足立区くらしの無料法律相談会のご案内

当事務所の弁護士が無料で法律相談を行う恒例の相談会です。
【日  時】  平成28年4月29日(土・祝) 午後1時~4時
【会  場】 東京弁護士会 北千住法律センター 足立区千住3-98千住ミルディスⅡ番館6階
 ※当事務所と同じフロアです [北千住駅]西口より徒歩5分

【予約方法】電話予約制 ※定員がございますのでお早めにご予約ください。
【予約・問合せ先】 弁護士法人北千住パブリック法律事務所 TEL:03-5284-2101
【予約受付期間】 平成28年4月17日(月)~4月28日(金)午前10時~午後4時 
                        ※平日のみの受付です

【主  催】東京弁護士会(北千住法律相談センター)
【後  援】足立区
【後  援】法テラス東京
【協  力】弁護士法人北千住パブリック法律事務所

2017年4月10日 1:40 PM  カテゴリー: 法律相談のご案内

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北パブコラム(第24回):外国映画から読み説く法律の世界① ~イタリアでは離婚が出来ない?~(弁護士 石田純)

 外国映画を観る楽しみの一つとして、単に物語を楽しむだけでなく、そこに描かれているその国、その国の「生活」を感じることがあると思います。そして、皆さんはあまり意識されないかもしれませんが、「生活」の影には「法律」が潜んでいることが多いので、外国映画を観ているうちに、様々な国の法律を知ることができます。そこで、これから、不定期に、外国映画から法律というものを考えてみたいと思います。

 

 「結婚」という制度が実は国や地域によってかなり制度が異なるということと同様に、「離婚」についても国によって大幅に制度が異なっています。

その中でも、キリスト教のカトリック系の考え方が強い地域では、離婚することが認められていないと言うような話を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。そして、そのような国の一つとしてイタリアが挙げられることも多いようです。

そのような情報が広まった理由のひとつとして、ある映画があげられます。それは、(日本では特に「鉄道員」「刑事」などで有名な)イタリアの映画監督であるピエトロ・ジェルミが1961年に監督した「イタリア式離婚協奏曲」です。この作品は、法的に離婚が認められていないことから、夫が、妻に対して不貞をするように仕向け、名誉のために殺害したことにしようと計画する話です。一見シリアスな話ですが、実際には軽妙な語り口で、喜劇として、おもしろおかしく演出されています。なお、ピエトロ・ジェルミは、その後、同様のテーマで「誘惑されて捨てられて」という映画も作っています。

 

 映画の影響かどうかは分かりませんが、イタリアでは、その後、1970年に「婚姻解消の諸場合の規律」という法律が制定され、一定の条件を満たした場合にのみ裁判によって離婚することが認められるようになりました。ただし、その場合でも裁判所が認定した別居期間が3年以上経過していることが要件となっており、かなり厳しい要件となっていました。その後、2014年から2015年にかけて、離婚手続きが簡略化し、かつ、別居期間が場合によっては半年でも良くなったことから、2015年の離婚件数が8万件を超え、前年比57%増となったということです。

 

 日本においては、協議離婚と裁判所を介して行う離婚が存在しますが、当事者が合意すればその理由は問わないなど、離婚について比較的寛容な制度となっているようにも思われます。

 しかしながら、相手が離婚に同意しなければ、離婚が認められるのは不貞行為や悪意の遺棄(「一切生活費を支払わない」など)といった理由またはそれに匹敵するような重大な理由が必要とされており、そう簡単に離婚が認められるともいえません。

 そのようなことも含めて、離婚の御相談をお受けしていると、「相手が言うのだから離婚しなければならない」、「3年別居したら必ず別れることが出来る」などと、離婚が出来る/出来ないという入口の段階で、間違った知識を持った方も多くいらっしゃいます。

弁護士に相談をすれば全てが解決するというような話ではありませんが、良くも悪くも人生の一大事である「離婚」、一人だけで悩んでいるようであれば、専門家に相談されることをお勧めします。

弁護士 石田純

2017年4月5日 12:00 AM  カテゴリー: コラム

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企業実務オンラインにコラムが掲載されました(戸髙広海弁護士)

 エヌ・ジェイ出版販売株式会社運営のウェブサイト「企業実務オンライン」に、「弁護士が教える『痴漢に間違われたときの法律知識』第5回「突然、部下の代理人弁護士から連絡が! 上司として、会社としてどう対応する?」というタイトルで、戸髙広海弁護士の記事が掲載されました。
http://www.kigyoujitsumu.jp/life/16782/

 

2017年3月31日 11:08 AM  カテゴリー: 講演、執筆等

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企業実務オンラインにコラムが掲載されました(原香苗弁護士)

 エヌ・ジェイ出版販売株式会社運営のウェブサイト「企業実務オンライン」に、弁護士が教える『痴漢に間違われたときの法律知識』第4回「当番弁護士がやってきた! 釈放されるために、弁護士は何をしてくれるのか?」というタイトルで、原香苗弁護士の記事が掲載されました。
http://www.kigyoujitsumu.jp/life/16418/

 

2017年3月31日 11:07 AM  カテゴリー: 講演、執筆等

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論文が掲載されました

 戸髙広海弁護士の「支配株主の死亡に伴う相続人間の経営権争いと利益供与/会社が株式の取得資金の連帯保証をしたことが『株主の権利の行使に関する』利益供与に当たらないとされた事例(東京高裁平成22年3月24日資料版商事法務315号333頁)」という論文が、「月刊税務事例」2017年2月号に掲載されました。http://www.zaik.jp/jirei/index_2.html

2017年2月10日 4:00 PM  カテゴリー: 講演、執筆等

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北パブコラム(第23回):命の値段、死刑のコスト(所長弁護士 大谷 恭子)

 最近、歌人斉藤斎藤「人の道、死ぬと町」(2016年・短歌研究社)という歌集を手にした。彼は、この歌集に宅間守のことを、「今だから、宅間守」と題して、章を立てて歌っている。この歌集、歌の前後にポイントを落として付された一文も含め、秀逸である。

 

入浴を終えた死刑執行人には、2万円の特別手当がその場で支給される。

(税金の使い道として悪くない)

午後は休みを与えられる。

一億三千万本の人さし指が宅間守の背中を押した            (同書65頁)

 

 死刑執行員制度は、導入されないだろう

穴から汁たれ流しつつ宙吊りの宅間守の欽ちゃん走り          (同書65頁)

 

殺さずに牢屋につないどけばいい 水でよいのに飲む烏龍茶

という歌を歌会に出したこれは後日の話。選歌してくれた或る歌人が、わたしの記憶ではこう批評する。「死刑と終身刑の差異、水と烏龍茶の差異とが微妙に重ねられていて、口語短歌としてよくできているのではないでしょうか。この方はおそらく死刑廃止論者なのでしょう。大きな問題ですし、ここは死刑について論ずる場ではないので議論は避けますが、理想と現実、ということはあるのかな、と。死刑囚をすべて終身刑にすれば、それなりの税金が使われるわけですし、理想論はともかく、現実的にはどうなのかな、と個人的には思います」。

  彼女が話し終えてから、わたしが聞き終わるまで、二十秒ほどあっただろうか。

  歌会は五時に終わり、開いている居酒屋を探しながら駅のほうへと歩いた。梅雨が明けて間もない神戸の午後五時は真昼で、笑えるほど暑かった。みんなからはぐれないよう歩いていると店が決まって、或る歌人は駅に向かい、わたしは居酒屋に入り、冷たいお絞りでごりごり首をぬぐう。                 (同書303頁)

 

歌集は偶然手にしたものだった。娘が机の上に置き去りにしてあったものをぱらぱらと

めくり、目に飛び込んできた。そして若き歌人の感性に驚き、耳には瞬時に届いているはずの話を、「彼女が話し終えてから、わたしが聞き終わるまで、二十秒ほどあったろうか」と書き記されたその二十秒に込めた思いに、いたく胸を突かれた。二十秒は長い。まるで地球の裏側からの電話よりももっと、時差を伴い、遠く離れている。

 

 私が初めて、死刑と終身刑についてのコスト論を読んだのは、1980年代、日弁連に拘禁法対策本部が立ち上げられ、そこで死刑確定者の処遇問題の検討をした時だった。当時、アメリカでは、このコスト論が盛んだったように思う。私は、そのドライさを嫌悪し、野蛮だと思った。その後も、アメリカは、コストだけではなく、死刑の執行方法について、苦痛が少なく、かつ確実に殺せる方法を比較し、論じている。これに呆れ、このような議論は日本では起きないだろうと漠然と考えていた。なぜなら、日本では死刑は秘密裡に執行され、コストも苦痛も明白にされていなかった。論議する材料すらなかったと言える。

 しかし、アメリカでのコスト論や執行方法の論議は、結局のところ、死刑制度存置の理由とはならなかった。苦痛が少なくかつ確実に執行できる方法に対する懸念は払拭しえず、特に、コスト論については、終身刑はお金がかかる(から死刑制度は必要だ)という結論には行きつかず、今では、死刑にはお金がかかる(から死刑制度は廃止するべきだ)との方向にある。これを決定的なものにしたのが、スーパーデュープロセスである。

 

 スーパーデュープロセスとは、1970年代にアメリカ連邦最高裁で、死刑判決には通常の手続きよりも手厚い手続きが必要であるとの複数の判決が続き、これを受けて、2003年、裁判官らも含む全米40万人の法曹協会(ABA)が、死刑事件について、捜査から公判、上訴、確定後の再審、執行直前の停止の申し立て等死刑事件の全過程において、現時点で考えられる法的手続きのすべてを尽くすべきであるとし、これについてガイドラインを発表し、これを実際的にも保証したものである。

 たとえば、質の高い弁護を提供することとして、二人以上の質の高い弁護人を付けること、心理・精神学、量刑判断に影響を与える調査能力を持った専門家を交え、その人たちがチームを組まなければならず、弁護チームとして可能な限り本人に有利な事情を出さなければならない。犯罪事実だけではなく生い立ちからすべてにおいて。これらはすべて公費で賄われる。判決は全員一致でなければならず、死刑となった場合は本人の意思に関わりなく上訴され(必要的上訴)、死刑が確定してからも再審請求について公費で弁護人がつく。さらに執行前には、執行停止の申し立てが可能となるよう、最低2週間前には本人および家族に執行の告知をしなければならない。要するに死刑が回避される可能性のすべてを尽くすべきだとしているのである。

 

 結局、一人の死刑判決を確定させ、執行するまでに、200万ドル(1ドル100円としても2億円)かかり、州財政を圧迫しているとの報告もなされている(2013年日弁連アメリカテキサス州終身刑視察報告書より)。このためもあって、アメリカにおいては、死刑判決は実際も減少している。

 取り返しのつかない刑罰だからこそ可能な限りの手続きを保証する、とすると、そこまでしなければならない刑罰は必要なのだろうかとの疑問となり、死刑制度そのものを揺るがそうとしているというのだ。

 コスト論は、人の命を奪うためには最大限の法的手続きを尽くさなければならないという理念を受け入れている限りは、ドライではあっても野蛮ではない。命の重さを共有し、それに最大限の法的手続きで応えようとしている。

 

 しかし、日本において死刑と無期(終身刑)のコストが語られるときは、抽象的であり、ほとんど根拠のない感情的な決めつけである。誤りが避けがたい裁判において、それでも無辜の人を処刑することがないようにするために、どこまで法的手続きを尽くすべきかという議論もなく、数十年執行されずにいる死刑確定者の存在も意識しない。彼らは再審を求め、近時も、袴田巌さんが、確定後34年を経てようやく再審が開始された。あるいは、執行されずに病で獄死する人もいる。私が受任した死刑確定者のうち一人は確定後25年、一人は18年で獄死した。(もちろんこの間、手弁当で再審請求し続けたことになるのだが。)

要するに、死刑は終身刑よりもコストは安いというのは、死刑事件の審理にお金をかけず、確定後、間を置かずして執行することを前提としている。

私の確定囚の獄死のニュースに、だから早く執行すべきだったと、ネットに意見が流れた。終身刑じゃないんだから、と。死刑だったのに事実上終身刑にしたのは税金の無駄遣いとでもいうのだろうか。

死刑確定後、数十年を経てようやく再審が開始することもある。だから執行できないのだ。これは取り返しがつかない死刑という刑罰の性格上、法も当然に予定していることなのである。

 

 日本の死刑は、死刑だからという理由ではお金をかけない。宅間守はその最たる例である。彼は、弁護人がした控訴を取り下げ、結果、確定後1年で死刑が執行された。日本では必要的上訴どころか、上訴しないと確実に執行が早くなる。彼の死刑の判決を判断するまでに要したコストは、一審の国選弁護費用と精神鑑定費用、合わせて100万には達しただろうか。

 

 今や、先進国で死刑制度を残す国は、アメリカ(2015年末現在、法的に廃止をした19州を除く)と日本だけである。そして、日本は、人の命を奪うからには最大限の手続きをしなければならないとの意識もなく、犯罪者を処分するのにお金をかけるべきではないとの意識が漠然とあるとしたら、これはもはや先進国とはいえない。残念ながら、アメリカよりも野蛮な国であると言わざるを得ない。

 

 斉藤氏と、選評をした「或る歌人」の差はどこにあるのか。税金で人を殺すことは1億3000万の国民みんなで殺すことだと思えること、見なくても絞首刑となった男が宙ぶらりんとなる姿を思い描けること、この感性と想像力の差は大きい。しかし、より大きな違いは、事実を知らずして、かつ想像力も希薄であるにもかかわらず、物事を断定し、人を切る、その傲慢さにあるように思われる。この傲慢さこそが、寛容と共生の対極のものであり、死刑制度を支えている。

 

 そして、寛容と共生を求める精神は決して大胆不敵なものではない。犯罪の恐怖におののき、身をすくませる小心さと同居する。

 

 斉藤斎藤氏の先の歌集からもう一首紹介したい。

 

 Imagine there’s no PRISON

怖いから仮釈放はしないでと嘆願書出すオノヨーコぼくら       (同書65頁)

 

 付された注によると、1980年に射殺されたジョンレノンさんの妻オノヨーコさんが、射殺犯の仮釈放申請に対し、これを認めないよう、司法当局に文書を出していたことが、2004年10月7日の朝日新聞で報道されている。射殺犯は無期刑(20年以上の服役で仮釈放が申請できる)。

 

 かけがえのない人を殺された悲しみや怖さは、20年たっても薄らぐことはない。被害者遺族としてせめて言えることは、怖いから仮釈放はしないでね。いつか私たちの社会に戻ってくる、でもまだ私はあなたが怖い、そんな被害者の気持ちを加害者に伝えられることが、生きた人間同士の関係として素直で優しくて、私はこの一首が大好きだ。

「ころせ」と言わしめるよりも、ずっといい。

 

追記

 斉藤氏の短歌には、「想像してごらん、監獄がないことを」の一文が添えられている。ご存知ジョンレノンのイマジンをもじっている。イマジンの歌詞は以下のように続く。

 

 Imagine there’s no countries

  It isn’t hard to do

Nothing to kill or die for

  And no religion too

  Imagine all the people

  Living life in peace

  You may say I’m a dreamer

  But I’m not the only one

  I hope someday you’ll join us

  And the world will be as one

 

この世界は犯罪にまみれ、監獄がなくなるなんていうことはあり得ない。それでもそれを夢想することができるのだろうか。

斉藤氏に脱帽である。

 

弁護士 大谷 恭子

 

 

 

 

 

2017年2月2日 3:58 PM  カテゴリー: コラム

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