裁判員が法廷にいる。
このことが,こんなに心強いこととは思いませんでした。
私が担当した裁判員裁判は,とても変わった経緯から起こってしまった事件でした。
普通の経験と常識を持つ人であれば,到底信じないような話を信じ込んでしまった結果,犯してしまった事件でした。
依頼者は,いわゆる「依存性パーソナリティ障害」にかかっており,その強い影響から共犯者の言うことに従い,引きずられてしまったのです。共犯者が作った架空の世界の中に閉じこめられてしまっていました。
ですが,その架空の世界は,第三者から見ると,信じるにはあまりにも不可思議なものでした。
「嘘をついているのではないか?」
「他人(共犯者)のせいにしているのではないか?」
様々な疑問が,裁判員の皆さんの頭に浮かんだのではないかと思います。
その一方で,
「他人のせいにするにしては,あまりにも常識外れの言い訳ではないか?」
そのようにも考えたのではないかと思います。
裁判では,パーソナリティ障害の権威といわれている医師が証人として出廷しました。
「そもそも『人の心』は,そんな合理的なものではない」
裁判員からの質問に対して医師はそう証言しました。
これまでの裁判では「合理的な人間像」が設定されていたように思います。
その「合理的な人間」が,問題とされた場面でとるであろう行動と,実際に証言された内容とが対比され,証言が信用できるかどうか,ということが判断されてきました。
そうしなければ,裁判官個々人の価値観に判断が左右されることになってしまって,おかしなことになってしまう,そう考えられてきたように思います。
もちろん,不合理なものを不合理なものとして,そのままに受け止めてもらったとしても,刑事責任が軽くなるとは限りません。
ですが,いかに不合理なことであったとしても,それが依頼者の思いならば,それが依頼者の真実なのであれば,それをそのまま法廷に届けるのが弁護人の仕事の一つです。
それが,「嘘」だと決めつけられてしまった人は,どういう思いを抱くでしょうか。そういう思いを依頼者にさせたくはありません。
裁判員の方々は,私の想像をはるかに超えて真剣に取り組んでおられました。依頼者の言葉を「嘘」と決めつけることなく,合理的な人間であるべきという偏見にとらわれることなく,法廷での証言,検察官・弁護人の主張,その全てについて耳を傾け,真剣に受け止め,皆さんがそれぞれもっておられる常識にしたがって判断を下されました。
そんな「市井の人たち」が,真剣に取り組む裁判員裁判に,私は刑事司法の未来を強く感じました。
弁護士 髙橋 俊彦
2011年1月24日 5:04 PM カテゴリー: コラム